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御荘焼資料・御荘焼長月窯跡・御荘焼一木窯跡・御荘焼早崎窯跡・御荘焼豊田窯跡

御荘焼資料・御荘焼長月窯跡・御荘焼一木窯跡・御荘焼早崎窯跡・御荘焼豊田窯跡の画像

御荘焼の創始者とされる紋之介(寛政2年~万延2年)については、生地その他不明であるが、いずれかの地で陶磁器についての知識を身につけていたと思われ、文化8年(1811)に長月庄屋と陶石の採掘願を藩庁に出したという記録が残っている。天保6年(1835)には息子の久治兵衛(文政3年~明治33年)を藩命により久谷で修行させ、天保9年(1838)から長月で本格的な磁器の生産を始めた。この長月窯を開いたあと御荘焼の窯は緑一木窯、緑岡窯(後に早崎窯ともいう)、豊田窯(シャカダバ窯ともいう)へと移転していく。
長月窯は確認された御荘焼最初の窯で、陶片からみると、あらゆる日用雑器が焼かれていたことが分かる。この窯を廃止し、緑に移った理由は諸説あるが、産出される陶石の質の悪さと、水の便がよくないことが大きな要因ではないかと思われる。
緑一木窯の陶片は非常に少なく、短期間で岡窯に移ったのではないかと思われる。一木窯と岡窯の製品は、形・絵付け等が非常に似かよっているのが特徴である。
その後、緑一木窯は衰退するものの、明治に入って再び窯を興し、昭和初期まで角切角鉢や雑器類を焼いている。
安政3年(1856)久治兵衛30歳の時には、緑岡に窯を興し、僧都産の陶石や釉用のユス灰を使用し作陶した。この岡窯は昭和初期の廃業まで最も長い期間営まれ、大量の焼き物が作られた。期間の長さと量の豊富さから、御荘焼を代表する窯といえる。
豊田窯は、富岡喜内(明治に入り久治兵衛が改名)と甥の稲田峰三郎によって築かれた窯で、御荘焼の窯としては最後に築かれたものである。この窯で焼かれた製品の特徴は、明治初頭に輸入されるようになったコバルトを用いた絵付けと印判物である。また色絵付けも焼かれ、富岡喜内と稲田峰三郎の名から「富」「峰」の窯印のある良品が作られた。

御荘焼長月窯跡の画像
御荘焼長月窯跡

御荘焼一木窯跡の画像
御荘焼一木窯跡

御荘焼早崎窯跡の画像
御荘焼早崎窯跡

御荘焼豊田窯跡の画像
御荘焼豊田窯跡

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担当部署:生涯学習課
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